2009.09.19|社長ブログ
神戸市東灘区在住の小説家、田中良平さんの短編小説集「バラード神戸」(ドメス出版)を読んでいる。田中さんは、私が親しくさせていただいている建築家の古田義弘さんを通じてお会いしたのが最初で、この本の挿絵は、古田さんが描いた神戸の街並みスケッチだ。
田中さんの本は、以前に読ませていただいた「青春疾走」も同じく、終戦直後の神戸の様子が描かれている。
神戸で生まれ育った私には、S30年生まれで終戦後15年あたりからなら、ぼんやりと残っている記憶が蘇り、実際には知らなくても映画を見ているかのように、当時の港や六甲の山並み、人々の様子、三宮や元町の景色とともに、そこにいたに違いない若い父の姿が目に浮かぶ。
私の亡くなった父は、大正14年生まれ、終戦当時は20歳、まさに、田中さんの小説の主人公と同じ青春の真っただ中であった。大阪では「どてらい男」で有名であるが、神戸にも当時の建国需要で繁盛した建設土木機材商社があり、父はそこの役員をしていた。身長185cmほどの、当時としては珍しく長身の大男だった。
今では考えられない混雑ぶりであった三宮のそごう百貨店では、父は、母が買い物をしている間も、一人で広い売り場の中をうろうろとしていたが、どこにいても、人ごみの上に頭が出ていたので、探しまわる必要はなかった。私も決して小柄ではないが、私の友人を含めて、自分の父親の背を超えることができなかったのは私ぐらいである。
私が5歳くらいの頃、三宮のバーに、なぜか連れて行ってくれた記憶が残っている。場所もどこか分からないが、記憶が正しければ名前は「マン」か、何かだったと思う。きれいな女性たちの注目を私が一人占めし、バナナが高級で病気の時にしか食べられなかった時代に、見たこともない細長いグラスに入った”本物のフルーツジュース”が出されたことを鮮明に覚えている。父は、おしゃれな誂えのブレザーを着て、オールドパーのロックグラスを片手にしていた。
家族では、今も残る生田神社の前にある洋食屋の「もん」に、よく出かけた。異国情緒溢れる店で、今も入口の扉は昔と同じだと思うのだが、常連だけがその扉を押すことができるのだ、という雰囲気を醸し出している。私はきまってエビフライ、1歳年上の兄は、いつも小牛肉のローストを注文した。
田中さんの小説にも出てくるが、昔の神戸には、一種独特な趣があった。三宮や元町のバーやレストランに限らず、小説に登場するホテルやメリケン波止場、この街は、世界にというよりは異国に通じる不思議な期待感と不安が入り混じったような感覚を、小さい私に感じさせていた気がする。
子供としては近寄りがたく、あまり話もできなかった父の若い頃は想像でしかないが、戦後の闇市の喧騒と、異国情緒の悠然の中で、ダンディズムにあこがれた大男は闊歩していたに違いない。
神戸っ子というと、おしゃれでハイカラ、新しいもの好き、ええ格好しい~、間違いなく私もその血をついでいることを誇りに思う。
田中良平氏に感謝。
(氏の小説の中に頻繁に登場する旧居留地時代のオリエンタルホテル)
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